街を歩いていると、道路沿いに街路樹が静かに並んでいます。
その多くは、ただそこにあるだけの存在なのに、季節ごとに色を変え、風を揺らし、都市の景色にほんの少しだけ“揺らぎ”を与えてくれるものです。
先日、通勤の途中で偶然、その街路樹の剪定作業に出会いました。
観光名所でもない、ただの道路沿いの木々。
けれど、作業後に見た街路樹は、作業前とはまるで別物のようでした。
乱れていた枝はすべて切り落とされ、個性のあった枝ぶりは消え、どの木も同じような形に整えられていました。
その光景を前に、私は少しだけ悲しくなりました。
もちろん、安全のために剪定が必要であることは理解しています。
電線に触れないように、車道や歩道にはみ出さないように、人の生活を守るために。
街路樹は「見せるため」に植えられているのではなく、機能を果たすために管理される存在です。
それでも、悲しくなった理由は、もっと別のところにあったのだと思います。
なぜ悲しく感じたのか
剪定前の街路樹は、一本一本が違う枝ぶりをしていました。
それぞれが、他の木や建物や風の向きと折り合いをつけながら、自分なりに伸びたい方向へ枝を伸ばしていた。
「生き物としての木」ではなく「役割としての木」へと姿を変えた瞬間、
そこに確かに存在していた“固有性”のようなものが失われてしまったように見えたのです。
人の都合に合わせて整えられることは、木にとって必要なことかもしれない。
けれど「整える」という名の下に、
その木が長い時間をかけて選んできた形や枝ぶりが、あっけなく消えてしまう。
私は、その「消え方」に心が動いていたのかもしれません。
それは、木ではなく人間のことを見ているような気持ちにも似ていました。
街路樹と人間の「適材適所」について
街路樹は、都市の中の“適材適所”として植えられています。
影をつくり、季節を知らせ、空気を整え、都市の機能を支える存在。
同時に、私たち人間もまた、
社会の中で「この役割を果たすべき」と形を整えられることがあります。
- 家庭ではこうあるべき
- 職場では求められる姿に合わせるべき
- 年齢に応じた振る舞いをするべき
そうやって、人は少しずつ「本来の枝ぶり」を削り落としていく。
もちろん、それは生きるために必要な“適応”でもあります。
だけれど、どこかで自分の自然な形が失われることに、寂しさが生まれることもある。
街路樹の剪定を見て悲しくなったのは、
木が切られたからではなく、
私たちも同じように形を整えながら生きているという現実を見たからかもしれません。都市に生きる木と同じように、
人もまた、誰かの都合で枝を整えられながら生きている。
そのことが、胸の奥で静かに痛んだのだと思います。
街路樹と同じように、私たちも形を整えられて生きている
剪定された街路樹を見て悲しくなった理由は、
木そのものではなく、
その木の“個としての形”が失われてしまったことにありました。
そしてその悲しみは、街路樹と同じように、私たち人もまた社会の中で形を整えられながら生きている、
そんな構造を重ねて見てしまったからなのかもしれません。
街路樹の枝が本来どんなふうに伸びたかったのか、
私たち自身がどんな枝ぶりでいたかったのか。
街を歩きながら、そんなことを静かに考えていました。
街路樹の佇まいにふと心が動くのは、
私たち自身がどこかで “自然な形” を思い出したいからなのかもしれません。
キクズノハナにも、
そんな「もともとの気持ち」をそっと思い出すような想いがあります。